抽象度という言葉から見る年を取ることの怖さ

お疲れ様です。内面的な悩みの解決についての連載の一部です。連載の他の記事はこちらです。http://kimaman.info/zinnseisoudannrennsaimatome/

前回の記事で
マルクスという歴史的な思想家の過ちと
公力効果の効果というのは
本質的には人と一緒に考えていくこと
一人でやらないことの効率のよさという点でつながっているという話をしました。

で今回は
「抽象度」
という言葉について
それが芯があるとか
パクリでしかないとか
そういう差につながっているんだ。
という話をしたいと思います。

 

でこの「抽象度」という言葉を理解した上で頭に置いているか否かで
ほんとに学習効率そのものが変わってきますし、
情報発信をやるとなったときにも
この抽象度の高いところが定まっていなかったら
結局のところそこらへんのものに埋もれてしまします。

別に情報発信がどうとか除いても
芯のあるないってこの抽象度って言葉が全てといっても全てじゃないです。
僕らが一貫した人生を送るにはどうしたらいいのか
ということでもありますね。
ということで本題に入ります。

1、抽象度ってなんなのか
2、芯があるないって一体何があってないのか
3、パクリが力を持たない理由

追伸ではセンスがないという理由で諦めるのがなぜもったいないのか
そもそもセンスはいらないけどこれがなきゃ諦めざるを得ないという話をします。

今日の一枚はジャズピアノというよりジャズキーボードの名盤。
BGMに使うと独創性も満喫感も得られてお勧めです。

1、まず抽象度ってなんなのか

抽象度ってなんか難しく映るかもしれませんが
その言葉の通りで
「それがどのくらい抽象的なのか」
という度合いを表している言葉です。

たとえば
犬とチワワ
どっちが抽象度が高いでしょうか。
もちろん犬です。
チワワや柴犬や全ての共通点は
「それが犬の一種であること」
なわけですから。
チワワの抽象度を上げると
犬になるわけですね。

どうってことない話ですが、
この抽象度の上げ下げができているかどうかが
そのまま
「物事を応用できるか否か」
につながってくるんですね。

たとえば数学、
なんだか数学って0から1を生み出す
みたいなものとして思われがちですが、
ほんとに0から1を生み出す数学って
それこそ数学者とかがやってるガチ数学だけです。

義務教育でやる数学、
受験で使う数学、
このへんまではほんとに所詮
三角を四角に変えられるか
というだけの話です。

どういうことかといえば

たとえばアという問題があって
そこでア’という解法を使ったとします。

でこのア’という解法のままだと
所詮アという問題にしか使えません。

でもそれを抽象度を上げてみる。

たとえば
二次関数が出てきたらまず因数分解ができないか考えてみる
という解法は
多次式が出てきたらその次数を分解できないか考えてみる
という風に抽象度を上げることができます。

すると二次関数にしか使えなかった解法が
3次関数にも4次関数にも使えるようになるわけです。

ア’という問題アにしか使えなかった解法が
他の問題の解法として使えるようになるわけです。

でここでやっていることが
「抽象度の上げさげ」ということになります。

先ほどの二次関数の例でいうなら
       
  多次
  ↑ ↓
二次  三次

という感じですね。
これが抽象度です。

2、芯がある、ないは結局なにがあってなにがないのか

よく
「あの人は芯がある」
とかそういう言葉を聴くと思います。

で芯ってなんなんでしょう。

芯があるという人が
どんな人かということは簡単に浮かぶと思います。

たとえば
周りがどう言おうと自分の姿勢を貫く人であったり、
そういう人が芯があると言われていると思うんですけど、
それって結果論にすぎないんですよね。

芯としての何かがあるから
結果として自分の姿勢を貫くことができるし、
周りがどう言おうと動じない。

でこの芯ってなんなんだろうと
僕は考えていたわけですが
最近、情報発信を教えていてはっとなったんです。

情報発信についていえば
たとえば辞書のような機能的価値だけに絞った発信をしていても
逆にただおもしろいことを言うみたいな感情的価値だけに絞った発信をしていても
結局埋もれてしまうわけです。

なぜかといえばそこに
一貫性がないからです。

でこの一貫性を芯という言葉に置き換えてみれば
芯がない発信というのは
なぜそれをやっているかが明確になっていない発信。
別の言い方をすれば理念のない発信なんです。

人は「なに」ということより
「なぜ」ということに興味をもちます。

だからこそ現代では「なぜ」という部分でミッションを語ることが
企業にも人にも必要になるわけですが、

この理念やなぜという部分は
抽象度の高いところという風に考えることもできます。

マザーテレサの名言にこんなものがあります。
「思考に気をつけなさい、
それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。
それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。
それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。
それはいつか性格になるから。」
これってただ眺めていると
「まあ当たり前じゃん」
という風にしか思わないわけですが、

これを抽象度という観点から観て
抽象度を上げてみると、

「抽象度の高いところ(思考)に気をつけなさい。
それが抽象度の低いもの(言葉や行動)をつくって
さらに抽象度の高いところ(性格)を再構築するから」

という風に捉えられます。

つまり行動が一貫している人というのは
思考や理念が一貫している人であって
そういう抽象度の高いところが一貫している人を差して人は
「芯がある人」
という風に言っているんですね。

3、パクリはなぜ力を持たないか

僕は人がパクることについても
僕自身がパクることについても
別にいいじゃんというスタンスです。

理由は簡単で、
結局パクリというのは
パクリのままでは力を持たないからです。

そもそも文章にしても音楽にしても
全くパクリじゃないものなんてこの世に存在していません。
全ての作品は人の作品をパクった上で成立しているんです。
文章を読んだことがない人が文章を書けるのか。
音楽を聴いたことがない人が音楽を創れるのか。

という話です。

でもそれはパクリ上等と僕が思っている理由の一部です。
一番大きな理由は別にあります。
それは
「結局パクリで取るに足りないもの」

「もちろんどこかしらパクってはいるけれど明らかにただのパクリではないもの」
この二つの間に自分の中でれっきとした差があるからです。

その作品が何かをパクっているのかパクっていないのか
そんなことは作品の本質じゃないと思っているからです。

加えていえばいいものはパクられてでも広まるべきだし、
パクられて影響力を失うくらいなら大した個性もなかったということだと思っています。
著作権なんてあったところで
結局情報複製されてすぐに無料で広まる時代です。
パクられた上で何を差別化できるのか
というところを考えた方が時代の流れに沿っていると言えるでしょう。

でじゃあ何が作品の本質だと思っているか。
たとえパクったとしても真似できないところはなんなのか。

それは
「抽象度の高低差」
であると思うんです。

たとえば音楽を創るときに
あるフレーズを完全にパクったとします。
あるメロディーを完全にパクったとします。
でも
「なぜそのメロディーを使ったのか」
「どんな意図があってそのフレーズを入れたのか」
そういう部分は簡単に真似できることじゃありません。
それは人の生き方に関わることであり
目に見えないからです。

メロディーをパクったとしても
影響力をそのまま拝借できるわけじゃありません。

オリジナルの素晴らしい音楽は
作者の思想や哲学


メロディ
という抽象度の高低差を経ています。

しかしパクっただけの音楽は
作者の思想や哲学


メロディ→メロディ’
という感じで
抽象度の高低を経ていません。

そこには作者の意図や思想が感じられません。
(それが感じられるパクリはリスペクトだとかオマージュだとか言われるのでしょう。)

抽象度の低いところで人の真似ばかりしている人生は
たとえば周りの人間の行動や言動を
何の意図もなしに真似しているだけの人生は
焦点のかけたぼやけたものになっていく。
それは人生において抽象度が上下していなくてエネルギーが生まれていないから
というのが僕の考え方です。

4、人生が進めば進むほど抽象度の高いところを変革は難しくなる

さっきマザーテレサの名言を

「抽象度の高いところ(思考)に気をつけなさい。
それが抽象度の低いもの(言葉や行動)をつくって
さらに抽象度の高いところ(性格)を再構築するから」
という風に改めて解釈しました。

それは抽象度の高いところこそが人生をつくるということでもありますが、
別の言い方をすれば
人生が進めば進むほど理念や思想という抽象度の高いところは
強化されて
凝り固まっていくことになる。

ということでもあります。

思想→言葉、行動→思想
という流れを無限に繰り返すわけですから。

人生を変えるなら若いうちだというのは
若いうちのほうが時間があるということではなくて
抽象度の高いところがどんどん強化されて
変え難くなっていく。
そしてそうなると抽象度の低いところもまた
変え難くなっていく。
だからなんですね。

理念とか思想とかそういう抽象度の高いところというのは
言い換えれば人生観や生き方と言うこともできますね。
そういうものは人生を経れば経るほど
変え難くなっていく。

よく若いうちに旅をせよということが言われますね。
20でする旅と40でする旅というのは
全くもって違うそうです。

それがなぜかといえば
20のうちは旅で抽象度の高いところ
思想や哲学というものが激変する可能性があるにしても
40という年齢になって
ある程度思想や哲学が凝り固まってしまってからでは
旅が単なる経験になってしまう可能性が高いから。
そう言うこともできますね。

それは僕がたとえば生き方の記事の広告を出すときにもわかります。
広告をクリックしている人の大半は18から34歳の若い人。
中年以上の方からのクリック率は基本的に低いです。
何に関しても中年以上の方のクリック率が低いというわけじゃないです。
たとえばお金があるのはどう考えても中年以上の方のほうなので
ECサイトの商品をそのまま広告に出したりすると
50歳以上の方が一番購入率が高かったりするみたいです。

大抵の人は思春期に自分自身や生き方について思い悩み、
二十歳が過ぎて社会人になっても
「ほんとにこのままでいいんだろうか」
という思いを持ち続けます。

別に悩むことそのこと自体が
悪いことでは決してないと僕は言いたいですね。

悩むことよりも
その悩みを置き去りにして人生をなんとなく過ごした結果、
人生が進むに進んでしまって
抽象度の高いところが
「死ぬ前に後悔する人生をつくる」
そんな元凶になってしまうことのほうがよほど怖いことです。

5、とりあえず頑張ればいいは奴隷原理

世間では未だに
「頑張ることが正義」
「違和感を感じていてもとりあえず頑張ろう」
そんな意見が多数派です。

でもそれははっきりいって
自分がどこに行きたいのか
自分がどんな風になりたいのか
そういうことを度外視して生きるのを受け入れるしかない
そんな奴隷的な人間の生き方です。

遠い昔、
アメリカで奴隷は解放されました。
でもそれは目に見える形式上のことにすぎません。
今でも多くの人は
「それをやることにどんな意義があるのか」
「それをやることが何につながるのか」
そういうことを考える暇もないままに
自分がやる意義を感じないことを嫌々やりながら生きている。
僕にはそんな風に見えます。

やりたいことをやろうという人生論は
確かにただ楽をする人生を創ってしまいかねないので危険です。
僕は
「自分がやる意義を感じることをやろう」

という考え方で生きています。
なぜやるのかわからないことを
無理矢理やる必要はないんです。

自分が意義を感じないことばかり引き受けていると
どんどんそういうやりたくないこと
意義を感じないことが増えていきます。

自分がやる意義を感じないことをしているせいで
自分がやる意義を感じることのことを考える余裕がない。
焦点を当てないことは行動になりませんし
人生において拡大することはありません。

だいたいこんなこと言うと
多方面から「命をなんだと思ってるんだ」
という声をもらいそうですが、笑
やる意義を感じないことをやって生きるくらいなら死んでやるよ
そのくらいの意気でちょうどいい。
逆にそのくらい徹底して自分が意義を感じないことはやらないというスタンスを持たないと
「無理矢理我慢してやるのが正義」
というのが常識のこの世間で生きていたら
人生が自分が情熱を持てないことで埋め尽くされてしまいます。

違和感というのは宝物なんです。
ほんとに心から情熱を持てることをやっていたら
違和感なんて感じないはずなんです。
違和感はそういう意味で
自分がやっていることはほんとに自分がやるべきことなのか?
ということを考えさせてくれる
いわばナビゲーターみたいなものです。
それに蓋をしてしまったら
人生はどんどん情熱を持てない方向へ進んでしまうでしょう。

ということで
「とりあえず頑張ればいい」
そんな奴隷原理に支配されないで
人生への違和感を大切にして
自分がほんとに情熱を持てることを探そう。

生き方や人生論
そういう抽象度の高いところに関することは
どんどん人生が進むにつれて修正するのが難しくなっていきます。

人生や生き方に関する違和感に蓋をするのが当たり前になると
もはやそれが当たり前であることを疑わず
「人生は我慢の連続だ」
「現実を見ろ」
そんな風に知ったように若い人に言い聞かせる
いわばホープクラッシャーになってしまいます。

おそらくここまで読んでくれたあなたは
そういう抽象度の高いところを固めてしまった人ではなくて
まだ柔らかくそれに対する疑問や違和感を大切にできている人だと思います。
僕らでその違和感を大切にしていこう。
そんな言葉で今日のメルマガは締めます。

PS.センスはどうにでもなるけどそれ以前に必要な能力がある。

「センスがいい」
という言葉はよく聴く言葉だと思います。
「センスがないからやめておこう」
そういうのも何かを諦める理由づけによく使われる言葉ですね。

でもセンスってそんな需要じゃない
というか後からいくらでも身につけられるものだと思うんです。

でもセンス以前に必要な
ある一定の能力があると僕は思っています。
そもそもそれがなければセンスも何も向上しないというものです。

それはまさに今日言ったことでして
「抽象度を上げ下げする能力」
ですね。

つまりカテゴライズ能力です。
このカテゴライズ能力がなければ
いくら作品に触れようと自分の作品や行動に活かすことはできません。

どんな作品もいろんな過去の作品を
要素分解して自分なりに組み合わせたものです。
どんなにそう思えなくても
完全にまっさらなオリジナルなものなんて一つとしてありません。

その要素分解するということこそが
まさにカテゴライズするということですね。

じゃあこのカテゴライズをするにはどうするのか
というと
作品の共通点と相違点に注目することです。
共通点がわかれば
一段抽象度の高い把握に成功するわけですね。

たとえば犬と猫だって
動物という共通点がわかり
カテゴライズできるわけです。

センスなんてそういうカテゴライズを
自分なりに作品と向き合っていかに行ってきたかということにすぎません。
センスがないから諦めるなんてもったいないです。
それは後天的にいくらでも磨けるものですから。

むしろ問題なのは
そういうセンスを磨く行為がどれだけ苦じゃないか
という部分です。
そのセンス磨きが苦じゃないなら
それは自分の希少価値をあげるのが楽しい分野ですから
ゆくゆく楽しく進化していける分野ということになりますね。

僕は哲学や思想に関して考えたり調べたりしているとき
全くもって努力しているという感覚がありませんでした。
だから思想を文章にするのを一つの仕事にしています。

でやっと今日の一曲を。
Chick CoreaのReturn to Foreverというアルバムですね。
かなりいろんな世界観が融合されているので
聴いてカテゴライズしてみてくださいね。
https://listenonrepeat.com/?v=0TcSK6MYkpU#Chick_Corea%2FReturn_To_Forever_-_1972_%5BFull_Album%5D

ではまたどこかで。
最後までお読みいただきありがとうございます。

「PC一台自分のビジネスを持って1日2〜3時間労働で一生食うに困らない力」
をあくまで「経済的自由力」という自由力の一つとして自由の側面に位置付け
それを含む五つの自由力
内観的自由力
→自分の向き不向き好き嫌い経験を知って自分だからできることを知って人生の方向性を決める技術
内面的自由力
→感情と思考をコントロールしてモチベーションを維持する技術
行動的自由力
→時間管理、行動自律、方法決定など目標に向けて行動を最適化する技術
情報的自由力
→必要な情報をインプットしセルフイメージをつくり、独自のアウトプットをして価値を生み出す力
経済的自由力
→ビジネスの知識としての一生食っていくのに困らない力
の五つを進化させて
自分だからできる度合いを向上させることで
自由なんかはあくまで通過点に置き死ぬ前に後悔しないような充実した人生を創ることを目指す。
そして最初からそこを目指すことが結局自由への近道でもある。
そんな理念で人生をより面白くする無料メルマガコミュニティ「School Of Free Life」を運営しています。
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死ぬ前に後悔しない人生を創ることへのきっかけになれば幸いです。

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